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『喫茶ユニヴァース』(8)



きれぎれになった時間の粒子が、換気口やガラス窓の隙間から忍び込み、厨房を通過し、まるで砂塵のような有り様で、テーブルや椅子の上に堆積していた。人間の姿は、それらの下にすっかりと覆い隠されて、もはや見分けをつけることが不可能な状態にある。いまとなっては、「これは妻だ」「これは娘だ」「これは私だ」と言える手がかりすら、なくなってしまった。店内で動くものは、何ひとつ存在しない。列車が通過した日々の思い出は、早くも遺産となりつつある。それでも業務用コンロは、新たに何かを迎え入れるということもなく、ただ待ち続けていた。行為だけは、いまでも確かに存留している。かつての客人たちは、頑なにカウンターを離れず、経過とともに液状化し、白骨化し、やがては風と同化した。それにしてもだ。「待つ」という行為には、一体どのような意味が隠されているのだろうか。往々にして、人間とは「待つ」生き物である。人生の大半を、待ち焦がれて過ごす。しかも、待ち続けた割には、ほんの僅かな褒美しか与えられない。行為そのものに於ける形骸化が甚だしくとも、やはり人は待ち続ける。はっきりと申し上げて、それはほとんど無意味なことだと言えよう。いまや店内は、時間に埋もれている。身動きが取れないほどに。こうして、空っぽになった店の暖簾は、何者かの手によって容赦なく外され、枠組みだけが残された。それでも、アナタ方は何の遠慮もなく侵入し、あらゆる場所に痕跡を残す。遠い昔に客人たちが忘れ、残していった様々な物品の残骸は、絶え間なく変形を繰り返しつつも、辛うじてその形を留めている。しかし、結局それらも意味を成さない。本来、形なんてものは必要ないのだ。そこにあるというだけで、そのものを明確に判別できる限りは。ここではすべてがまどろみ、眠っている。無頓着にさえ思える静けさの中で、動物性タンパク質の焦げる匂いがした。その臭気には、どこか不気味な気配があった。調理とは、生物たちの不在を助長させるのだ。固い表皮と厚い果肉に浸透する、夜の帳。「大変お待たせいたしました」というウェイトレスの明るい声が聞こえたような気がしたが、恐らくは空耳だろう。その後も喫茶店には誰ひとり寄り付かぬまま、ひっそりと後に残された。店は人間とは異なる独自の言葉で、こう呟いた。「わたし待つわ。いつまでも、待つわ」。すぐ脇を、川が流れている。

血だまりから湯気が立ちのぼり、芳しい臓腑の香りが鼻腔に満ちる。粘液に塗れた重い瞼を、ンデベレはゆっくりと持ち上げた。虚ろな視線の先には、見たこともない新たな世界が何処までも果てしなく広がり、言葉の介在しない美しい青空は、黄金色のトングによって引き裂かれた。

(終)
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喫茶ユニヴァース | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/12/10 01:55

『喫茶ユニヴァース』(7)



「こいつは何者だ?」「ンデベレだ」「違う。ンデベレとは似ても似つかない」「そんな筈はない。どこからどう見てもンデベレじゃないか」「いや、ンデベレとは明らかに異なる」「いいや、こいつはンデベレだ」「絶対に違う。誰が何と言おうと、ンデベレではない」「おい、この幼子を知っている者はいないか?」。男たちの内側で、ざわめきが起こった。そんな彼らの背後から、音もなく忍び寄る長老。一族を統べる者の気配に、男たちは一段と色めき立つ。「道をあけよ。我らの長老が、こちらに御出でになるぞ」。その言葉を契機に、集団は瞬く間に、大地にひれ伏した。憧憬の眼差しが、一点に注がれる。「その子は、私どもの子だ」。トライブを睥睨した後、長老は同じ言葉を再度、繰り返した。「その子は、私どもの子だ。天からの授かりものだ」。集団内に動揺が伝播する。なかには反旗を翻す者も。「騙されるな。そいつは紛れもなくンデベレだ」「己の身分をわきまえよ。貴様こそが、ンデベレだ」「血迷ったか。おまえの方こそ、ンデベレだろう」「俺がンデベレだ」「違う。俺がンデベレだ」「違う、俺だ」「俺がンデベレだ」「俺だ」「俺だ」「俺だ」「俺だ」「違う。俺こそが、正真正銘、本物のンデベレだ」。雨後の筍のように産出された、大量の自称ンデベレたちは、互いの脳天を石で打ち砕き、ひとり残らず絶え果てた。血で濡れた大地の上に残されたのは、幼子と長老のふたりだけ。静謐な濃霧が、彼らを包み込む。

隙間風が吹き始めた。カウンターに置かれた伝票は、こともなげに宙を舞う。テレビから聞こえる声。黒い肌の演説者。そのスピーチ。Listen…。「我々の一族は森に守られ、閉ざされた種族、他の民族とは、一切の関係を持たない唯一無二のトライブでした。そんな我々のもとに、悪夢の時代が訪れました。そう、何の予告もなしに。内部で争いが起こったのです。我々は仲間同士で頭蓋骨を叩き割り、森を亡骸で埋め尽くしました。いまや一族は血にまみれ、生存者は皆無です。見るも無残な情景でした。一族は一族を殺めます。人間が人間を殺めるのと同じように。そこに意味や理屈が存在する余地はありません。昨日までの罪なき者どもが、まったく罪なき仲間たちを、理由もなく、殺戮したのです。殺し合ったのです。しかし、それで終わりではありません。我々は、ひとりの子を授かったのですから。私は希望を込めて、その子をオピカ・ペンデと名付けました。もちろん一連の出来事は、悲劇的と言えるでしょう。それでも、終わりはやって来ないのです。罪と苦悶という茨の道は、新たな生命を孕みました。何が終わりえよう。何も終わりません。自責の念にかられながらも、私どもは、オピカ・ペンデとともに歩み続けるのです。ただ前へ!前へ!」。

(続く)
喫茶ユニヴァース | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/08 21:01

『喫茶ユニヴァース』(6)



ジギタリスの葉をかいくぐり、トリカブトの葉をかいくぐり、ンデベレは鬱蒼とした森の中を、矢のように駆け抜けていく。すぐ後を追う、黒い塊。何度も転びそうに、前のめりになりながらも、ンデベレの足は止まらない。走りながら、ジギタリスの葉を摘んでいる。強心成分を含む、有毒性の葉を。おまけにトリカブトの根を引っこ抜いている。言わずと知れた、有毒性の根を。そして、それらの葉を掌で磨り潰し、全身に塗りたくる。それらの根を口いっぱいに頬張り、奥歯で噛み砕く。大空を飛翔していた鷹の一団が、頓狂な声を上げた。「気でも狂ったか!ンデベレ!」。ンデベレの細くしなやかな四肢を、猛毒が網羅する。舌が痺れ、足がもつれ、直ちに全身が麻痺状態に陥った。それでも両手は次の葉、次の根を、求め続ける。すぐ間近に大蛇が迫っていた。その腹は恐ろしく膨れ上がっている。更なる膨張を求めて、大蛇はンデベレに襲いかかり、丸飲み、即座に嚥下する。遅れてやってきた男たち。満ち足りた表情の大蛇を前にして、みな一様に肩を落とした。ンデベレを奪われただけでなく、今度は自分たちが絶体絶命の窮地に立たされるのだ。大蛇が振り返る。男たちは一斉に踵を返そうとした。が、大蛇は襲ってこない。それどころか、周囲の木々に体当たりを繰り返し、悶えている。恐怖に竦みあがる虫や獣たち。やがて大蛇は凄まじい唸り声を上げ、その巨大な口からンデベレを吐き出し、息絶えた。地表に転がるンデベレ。全身が粘液に塗れている。まるで、生まれたばかりの赤子のように。その様子を、ただ呆然と眺める男たち。

私の予感は、いま確信に変わった。口角泡を飛ばして激昂する年配客は、紛れもなく私自身である。そして、その隣にいる若いカップルは、私の子供たちだ。特に息子、頬骨から顎にかけてのラインが、妻にそっくりではないか。どうしていままで気が付かなかったのか? どうりで、店に足を踏み入れた瞬間から、懐かしい匂いがした訳だ。私は列車を乗り継いで、我が家へと帰ってきた。いつだって、此処から始まり、此処に帰ってくる。誰に教えられる訳でもなく、すべて最初から分かっていたことだ。ありがとう、マイ・スウィート・ホーム。私はポケットの中に手を入れ、指先で輪ゴムを弄んだ。親指に通した輪ゴムを人差し指へと移動させ、人差し指から中指へ、中指から薬指へ、薬指から小指へ。今度は小指から薬指へと移動させ、薬指から中指へ、中指から人差し指へ、人差し指から親指へと帰ってくる輪ゴム。輪ゴムは私の指先から離れることはない。行きつ戻りつして、指から指へと渡り歩く。実に面白い。愉快だ。これで色んなことに説明がつくだろう。この店は、私の所有物だ。「あなた」。突然、誰かに声をかけられた。呼んだのは、私から最も遠く離れた席にいる、私の娘である。「あなた」。彼女は再び私のことを、そう呼んだ。私はとんだ勘違いをしていたようだ。彼女は私の娘ではなく、妻だった。どうりで頬骨から顎にかけてのラインが、似ていると思った。厨房から、微かに呻き声が聞こえる。コンロの脇にうずくまる店主の顔色は、蒼白そのものであった。

(続く)
喫茶ユニヴァース | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/07 22:21

『喫茶ユニヴァース』(5)



依然として、料理は出てこなかった。灰皿には、山積みの吸い殻。頬に触れると、無精髭の存在を感じた。窓の向こう側は、すっかりと闇に包まれている。料理が提供されていないのは、なにも私だけに限った話ではない。隣の客も、その隣の客も、そのまた隣の客も、右に同じである。すぐ横にいる薄汚い年配客は、週刊誌のグラビア写真をおかずに、水をピッチャーごと飲み干していた。このままでは、時間の終わる果てまで、待たされるのではないだろうか。しかしながら、私も他の客たちも、きっと待ち続けることになるだろう。なにせ我々は、いまのいままで、現にこうして、待っていたのだから。「ハゲ黒」とやらの正体を、この目で確認しない限りは、事態は永遠に収束を迎えない。仮に、永遠に提供されないというのなら、私は永遠に待つだろう。毅然と待つだろう。ばかばかしいとは思いつつも、待つという行為だけが残されるのだ。店主も不在、料理も不在、客も不在、ただ待つことだけが残される。そのときになって、ようやく私は自身の空腹を知るのだ。虚しい腹の音を聞くのだ。恐らく私は、もうそういうところへ来ている。他の客はどうか。あまりにも長く待ちすぎて、怒る気力さえなくなっているだけなのかも知れない。そもそもオーダーすらしていない可能性もある。本当のところが知りたい。いたずらな好奇心を抑えることができなくなった私は、首を伸ばして、それぞれのテーブルに置かれた伝票を確認することにした。隣の男の伝票には私と同様「ハゲ黒」、その隣の男の伝票には「アメリカ万博」、その隣の女の伝票には「元カレ」とそれぞれ記載されていた。各自のオーダーは、既にちゃんと通っていたのだ。やはり、彼らも私の同類であり、永遠に待つ者の末裔だった。驚愕と歓喜で、度を失いそうになる。制御不能だ。私は隣の年配客に、言葉をかけていた。「料理はまだ出てこないのですか?」。男は訝しげに頭を上げた。「あなたも随分と長い時間を待たされているようだけど、大丈夫ですか?」「なんのことだ?」「いや、だから、料理ですよ。出てこないでしょう?」「そんなことはない」「そんなことはないとおっしゃいますけど、実際に料理は提供されていないじゃないですか」「大した問題ではない」「あなたは怒らないのですか? 空腹に耐えられるのですか?」「儂は生まれてこのかた、いつだって空腹だったと言えるし、いつだって満たされていたとも言える。世の中そんなものだ」「しかし、あなたが長い時間を待たされていることは確かであり、揺るぎようのない事実だ。一体いつから待たされているのですか?」「儂は待ってなどいない」「そんな筈はない。あなたは、私よりも先に入店されていた。少なくとも私よりも長い時間を、ここで過ごしている。後から来た私でさえ相当に長い時間を待たされている。いや、誤解を招いてはいけないので最初に断わっておきますが、私は待たされることの不満をあなたと共有したい訳ではないのです。ただあなたがここで待つ理由を、教えていただきたいだけだ」「何度も言わせるな。儂は待ってなどいない」「では、いつここにいらしたのですか?」「いま来たところだ」「それは嘘だ。あなたは私よりも先に来ていた。それは確かだ。一体いつから…」。そのとき、男が急に立ち上がり、声を荒らげた。「いいかげんにしてくれ、時間のことをなんだかんだ言うのは。全く、ばかげとる。いつだ! いつだ!いまではいけないのかね。いま。あるいは後ろに過ぎ去りし、いま。もしくは前方に見える、いま。いま儂はここに来た。いま儂は料理を注文した。いま儂はグラビアの女を眺めた。いま儂は水を飲み干した。そして、いま儂はおまえに話しかけられた。すべてが、いま起きた出来事だ。いまに儂は空腹に襲われるだろう。いまに儂は餓死するだろう。いまに儂は生まれ変わるだろう。現に、いま生まれたばかりなのだから。わかったか? いま儂は非常に不愉快な想いをしている。すべては、いま。ぜんぶ、いまの話だ!」。その言葉を聞いたいまの私が、得も言われぬ幸福感に満たされつつあることを、付け加えておく必要があるだろう。

(続く)
喫茶ユニヴァース | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/06 21:51

『喫茶ユニヴァース』(4)



藪の中に身を潜めたンデベレは、いま自分が置かれている状況を、子供なりの素直な心で推察しようと努めた。あんなに優しかったママンが死んだ。あんなに強かったママンが死んだ。小さな頭を、大きな石で打ち砕かれて。血が炎のようにピューと吹き上がって。どうして。どうして。なぜママンは殺されなければならなかったの。殺したのは誰。殺したのは、たくさんの大人のなかのひとりだ。もしかしたら、隣村のマチェーソおじさんだったのかもしれないし、全然知らない人だったのかもしれない。でも、ママンを殺した人が、仲間のなかに居ることは確かだ。ママンは殺された。どうして。どうして。そのとき、自分の足元でとぐろを巻く大蛇の存在に気づいた。大蛇は舌先をチロチロさせながら、ンデベレを見据えている。女陰を思わせる不気味な瞳孔を、頻りに収斂させていた。内に秘めたる獰猛を、隠そうともしなかった。ンデベレはゴクリと生唾を飲み込んで、身を固くした。そうこうしている間にも、広場の方からは裸の男たちが大挙を成して、押し寄せてくる。ママンを殺したのはおまえか? ンデベレは大蛇に向かって、問いかける。違うだって。だったら、いまここで証拠を見せてみろ。そう言って大蛇を鷲掴みにし、ウンムがンデベレをそうしたように、渾身の力で大空に放り投げた。美しい放物線を描いて飛翔する大蛇は、大口を開け、村人をひとりふたりと飲み込んでいく。男たちは無抵抗に、いや、まるでそうなることを望んでいたかのように、次から次へと、大蛇の腹の中に収められていった。際限がなかった。多くの死のなかにある、個人の死が、これみよがしに量産を続ける。この瞬間、ンデベレは母の死を完全に認知した。ママンは死んだ。けれど、自分はまだ死なない。自分が死を孕まないことを、ンデベレは確信する。そして、脱兎の勢いで、走り始めた。死は、決して終わりにならない。ンデベレは駆けることで、終焉を拒絶した。それは彼にとって、ひとつの大きな賭けでもあった。細い獣道を縫うようにして、可能な限り素早く、持てる力のすべてを注ぎ込み、林を駆る。文字通りの全速力で。心臓はどこかに忘れてきた。それもいまなら、好都合。走りながら後ろを振り返ると、いたるところに男たちの殺気が潜んでいるのを感じた。まだ近い。まだ危険だ。木の上でせっせと交尾をしていた猿のコンビネーションが、不意にンデベレの姿を認め、周囲に告げる。「いたぞ。あそこだ。ンデベレだ」。それを契機に、ンデベレを追走する男たちは、ふたたび一局に集束し始めた。黒く蠢き、波打っている。ただし、その数は先刻までと、同じではない。すでに数名は、大蛇の腹のなかだ。しかし、どちらがどちらなのか、いまとなっては判然としない。執拗に体躯の変動を繰り返す二匹の生命体は、猛然とンデベレに襲い掛かる。逃げ切ることは、無理かもしれない。さすがのンデベレも不安になった。しかし、少なくとも一体は裸の男の集合体に過ぎないのだと思い至り、自分の足を信じることにした。ンデベレの目の前で、道が分岐している。ンデベレは迷うことなく、トリカブトやジギタリスの生い茂る、危ない道を選んだ。追う者たちの足には、若干の迷いが生ずる。

(続く)
喫茶ユニヴァース | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/04 22:17
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