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目と目で通じ合う



九州の地震が大変なことになっている。普段からTVを見ない僕は、ニュース報道ではなく九州在住のブロガーころんさんのブログ記事や熊本の作家・坂口恭平さんのツイートで現状を知ることとなった。試しにTVを付けてみると相も変わらずスペクタクルを追い求めるメディアの姿が飛び込んできて、慌てて電源を切ることにした。ころんさんは「いまを大切に生きる」ことを改めて強く感じられたそうで、来るべきスキャンダルのライブを心待ちにしておられる。東北大震災を契機に熊本へ避難した坂口恭平さん一家は、次なる移住先を求めて旅立たれたようだ。いずれも正しい行動だと思う。いや、正しいとか間違っているとかではなく、自分が「こうするのだ」と決めたことを実行することでしか、道は拓けないのだ。だから「個」を「塊」へと収束しようとする「力」は必要ない。「力」は「知から」である。僕たちは何度でも知ること(思い知らされることも含めて)から始めなければならない。僕は早速「コバルト短編文学賞」応募に向けての短編をひとつ完成させた。既定の25枚。住んでいた街を中陰から俯瞰した物語。自分の見た景色とか人間を見たまんまに描いただけで、ここがこうなってこう落ちるとかいう謎解きとか辻褄とかを一切考えずに書いた。この辺りは柴崎友香さんの一連の短編から学んだところが大きい。柴崎さんの書く話は物語の「起承」を放り投げたまんまで「転結」する。だから物語を読むことによってある種のカタルシスを求める人には不向きだとも思えるが、現実は「そうだよな」って思う。謎なんて解明されないことの方が多いい。「あの人なんであんなことするんやろ?」という疑問の「なんで?」の部分が分かる人なんていないのだ。そういう意味で多くの小説は無闇に謎を説きすぎる。よって現実よりも小さくなってしまう。僕は25枚とか30枚という小さな物語の中で、どこにも収束されない大きな小噺を創作したいと思っている。ところでみなさんにとって小さくて大きな短編って何ですか、僕なら真っ先に磯崎憲一郎さんの「絵画」を挙げたくなる。他には小島信夫さんの「声」とかカフカの「カルダ鉄道の思い出」とか。完璧にして究極の短編、機会があれば読んでみて下さい。それにしても、かつて目と目で通じ合っていたとされる人々は、いつからか言葉を介してコミュニケーションを図るようになったのか…。

本日の一冊。大江健三郎 / 万延元年のフットボール
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上記でつらつらと短編に関する想いを書き綴っておいての大長編の紹介である(笑)。自他とも認める大江健三郎の最高傑作ですね。まぁ、本当に眩暈がするような物語ですよ。もうね大江さんの呪詛とか怨念とか情熱とか思想とか…とにかく危ないものがギュギュギュッと詰まっていて、読んでいる間は知恵熱が出そうになります。こういう話は解説のしようがないので、実際に読んでもらうしかないのですが、とにかく中盤から後半にかけての怒涛の展開には鬼気迫るものがある…なんていう言葉さえも陳腐化するほどに凄まじいものがあります。こんなにもサイテーな話をこんなにも高みへと押し上げる大江さんの超絶技巧的な語りには感服するしかない。何十年も前に書かれた物語が未だに最先端を示しているような気がしてならない。とにかく終盤、吐き気を催さずに読み終える人などいるのだろうか。恐るべし傑作。
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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/04/18 15:23
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